2020年11月1日
四谷新生教会主日礼拝説教
「像が偶像に人が奴隷に」
イザヤ書44章6-17節
今日私たちに与えられている旧約聖書のテキストは、イザヤ書44章です。イザヤ書の40章から55章までというのは、1章から39章までを記した預言者イザヤよりも大分あとの時代になされた預言と考えられています。その部分を預言した人は、自分の名前は出さずに、先輩預言者イザヤの名のもとに預言を残したので、聖書学者たちは仮に「第二イザヤ」と呼んでいます。
第二イザヤは、バビロニアにユダが侵略され、主だった人たちがバビロニアに連行される、いわゆる「バビロン捕囚」というきびしい状況の中で、神様からのメッセージを伝えるよう立てられた預言者です。エルサレムから遠い異国の地バビロンに囚われて、屈辱的な思いをさせられ、主なる神様は我々のことを見捨ててしまったのかというような不安や疑いも抱く中、預言者はとても大切で、とても心に響く希望の言葉を語ります。
お好きな方は多いと思いますが、ヘンデルのメサイア。あの最初のレチタチーボはテノールが歌うComfortYe。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」ですが、あれは第二イザヤの冒頭のことばです。多くのクリスチャンが愛誦する「わたしの目にあなたは価高く、貴い」や、「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている」も第二イザヤです。そして何より、私たちにとってはまさにイエス・キリストのことを預言している「主の僕の歌」も、この第二イザヤに含まれています。イエス・キリストとのつながりが最も太い書、と言ってもいいかもしれません。
このように重要な書が、イスラエルにとって最も悲劇的と言える「崩壊の時代」に記されている、というのは興味深いことです。どん底まで行って、初めて神さまの慈しみの深さがわかるようになった、と言えるかもしれません。
さて、そのような状況の中で、疲れ、沈み、自信を失っている民に語りかけられている言葉である、ということを頭に入れて、今日の御言葉を受け止めたいと思います。
9節「偶像が形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない。」
10節「無力な神を造り/役に立たない偶像を鋳る者はすべて/その仲間と共に恥を受ける。」
ある聖書注解者はこのセクションに、「偶像礼拝に対する嘲笑歌」という題をつけています。
偶像は無力だよ。あれは職人たちが鋳造しているんだ。金づちと炭火で作っているんだ。あるいは、木を切ってきて、のみで削って、コンパスで図を描いて、人の形に似せて作っている。森で取ってきた木の、一部分は薪にしてストーブに使ったり肉を焼いたり、そして一部分を偶像にしているんだ。
確かに「嘲笑」という表現があたっているような語り口です。言っていることはその通りかもしれません。でも、私の率直な感想を言うと、読んでいて、ちょっと嫌な感じがしてしまいます。他の宗教の信仰者たちで、像というものを大切にしている人たちもいます。その人たちだって、像が普通の物質から作られていることはもちろんわかっているし、それ自体が神や仏であるのではないと考える氷魚たちも大勢います。何か、「私たちだけが本当のことをわかっているんだ」と他の宗教の人を馬鹿にするような物言いはいやだなあ、と思ってしまうのです。
しかし、なぜこんな嘲笑といえるような言い方を敢えてしているのか、ということは考えてみないといけません。なぜこんなに偶像礼拝を馬鹿にするのだろう。
この預言が、誰にむかって、どのような文脈の中で告げられているのかを考える必要があります。重要なことは、これはヤハウェという神の御名を知らず、像をこさえている人たちを攻撃し、断罪し、痛めつけるために語られているのではない、ということです。神様を知らないまま、しかし絶対的なるもの、救ってくれるものを求めて、何かの像をおがんでいる、という人たちに対しては、神御自身がふさわしい時に語り掛けるでしょう。(イエス・キリストが来られた時、そのことが起こりました。使徒言行録17章16節以下参照)
しかし今は、その人たちを裁いているのではないのです。神が、神の民に語り掛けているのです。イスラエルの民が偶像礼拝に接触しているからこそ、つまり、まことの神との契約のうちに置かれているものたちが、「目に見えない」神様との深い交わりを忘れて、「見えるもの」としての像の支配力に屈して、その奴隷になりかけているという危機の中にあるからこそ、これほどに強い表現をもって「偶像は無力だ」と説いているのです。逆にいえば、「無力なんだよ」とこれほど強く言わねばならないほどに、見た目には、その像が強力に見えたということです。贅を尽くして、職人たちが巧みに作りあげた美しく大きな像たちは、まさに人の政治権力や経済力の結集であるわけですから、豊かさのシンボルとして君臨していたのです。イスラエルの人たちはそれに動揺させられていたのです。あるいは、屈服させられていたのです。心が奴隷にされかけていたのです。
十戒の第二戒は、ご存じのように、「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。「上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」。
熱情の神の、熱情が迫ってくるような熱く強い言葉です。なんでこんなにも熱く強く、像を禁止するのか。それは、十戒の前文から理解しなければなりません。十戒はなんといっても、前文がすべての根拠となっているので重要なのです。それは、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」
神さまは、奴隷の家から民を解放した神さまなのです。神の与えてくださった尊厳をもった自由な人間として、取り戻してくださったのです。十戒というのはすべて、その自由を守るためのものです。あなたは神の救いの業によって自由な人間になった。だから、奴隷の家に逆戻りしないために、いかなる像もつくってはならない。
なぜですか。像は、偶像となるからです。はじめは素朴に、神さまってこんな方かなあ、こんなイメージかなあと、尊敬や憧れをもって作ったのかもしれない。祈りの時にみつめる、神さまのシンボルとして作ったのかもしれない。それは、愛する人の肖像画を飾って、その肖像画を眺めては、遠くにいる恋人を思うような、そういう純粋な行為だったかもしれない。
でも、一度作ってしまうと、像は、目に見えない神様よりずっとわかりやすく、直接的であるために、像のほうに頼りたくなってくるのです。しかも、ここで大きな問題は、像のほうが、自分たちの望むものにできるのです。自分たちがコンロトールできるものになるのです。
十戒の第二戒の「あなたはいかなる像も造ってはならない」は、聖書協会共同訳では、「あなたは自分のために彫像を造ってはならない」です。他の訳も皆、「自分のために」を訳出しています。これは非常に重要な点です。像を造るという行為は、「自分のために」という動機を内包しているのです。自分たちの満足のために、自分たちの利益のために、自分たち用に使える神がほしい。「像」を頼りとするということには、人間が先にあって、人間のニーズが先行して、神の像ができあがっていくという構造が避けがたくできてしまうのです。
いや、人間がそれで幸せになるのなら、いいではないか。「自分用の」ものがあって何が悪いだろうか。自分にあったカスタム・メイドの、心を満たしてくれたり、安心させたり、癒してくれる「お守り」的な像があって、何が悪いだろうか。
何が悪いか。人の欲求が造りだした像は、まことの神さま、生きている神さま、人を愛する熱情の神さまから人の目をそらします。そして必ず、人を縛り、人を支配するものとなるのです。これは非常に皮肉なことですが、人が「これがほしい」と思って作って、自分がコントロールできると思っていたものが、人を操り、罪という縄でがんじがらめにする。今、私たちが資本主義経済がすべてという社会で、自由競争で何でも欲しいものが手に入るようにするのがよいという「富」を最強の偶像とする世の中を造って、その中で、どんどん人間らしく生きる自由を奪われている。これが非常にわかりやすい例ではないですか。
今日私たちに与えられた箇所の少し後、21節にこうあります。「思い起こせ、ヤコブよ。イスラエルよ、あなたはわたしの僕。わたしはあなたを形づくり、わたしの僕とした。イスラエルよ、わたしを忘れてはならない。わたしはあなたの背きを雲のように、罪を霧のように吹きはらった。わたしに立ち帰れ、わたしはあなたを贖った。」
バビロンのきらびやかな偶像たちの前に動揺してしまっていた、信仰薄きイスラエルのことも決して放棄しない神さまがここにおられます。なお「わたしの僕」と呼び、罪を過去のものとし、もう一度やりなおすことを求める神がここにおられます。神さまは生きておられるのです。だから、「人間が作った神をおがむ」ことから、「神に作られた人間として生きる」ことへ、方向転換しなければなりません。そして、それは自分たちだけが救われるだけではなくて、世界のための奉仕でもあるのです。
いわゆる国力でいえば、とても小さくて貧弱なイスラエルにとって、神様に授かった唯一無比なる使命というのは、「神を神として生きること」、「神のみを神として生きること」でした。それは古代中近東世界にあって、まったく異質なことでした。立派で豪華絢爛な偶像が並び立つ世界にあっては、「あなたたち、何も見えるものをお祀りしないまま何やっているの?」といわれるような、異質さでした。しかし、像を造らない神信仰の証しは、人間を奴隷にしない、人間が神の恵みのもとに自由に生きる、道を示すものであったのです。ほかのものではない、天地を造られた神が神とされる時、はじめて、神に造られた人間が本当に人間らしく生きられる――そのことを世界に示す行為となるのです。
「像を造ってはならない」。それは、「像を造る必要がない」ということであることを学びましょう。私たちは人間である以上、目に見える像に弱いのです。すぐ目の前にあって人や物事を動かせるお金の力や、たちどころに人を動かせる権力に、弱いのです。「結局頼れるのはこれだ」と思ってしまうのです。奴隷に逆戻りしてしまうのです。しかし、そういう私たちのために、神はイエス・キリストにあってこの世に宿ってくださいました。いつも、どんな時でも、どんな所でも、共にある神として、イエス・キリストが私たちの主となってくださいました。「インマヌエル、主我らと共に」と呼ばれる方として、この世に来てくださった主が共におられます。私たちは像を造る必要はありません。お守りのように使う偶像はいりまあせん。生きた神が、共にいてくださるからです。
「像を造る必要がない」恵みを受けている私たちです。
聖徒の日、先に召された方々を思う主の日、先に召された懐かしいお一人お一人が、神に愛され、神共にいます人生を地上で全うされたということを思い起こすことができます。そして、今や、天において神のもとにある。私たちも、そのような歩みの中にあることを喜びましょう。
<祈り>
神さま
本当は無力なのに、見た目が大きく富裕で強そうなものに囲まれると、自分が孤立無援のように思いこんでしまう愚かなわたしたちです。あなたは生きて働いておられます。あなたは私たちをとらえ、語り続けてくださいます。あなたに信頼して歩む者としてください。
偶像をまったく不要にしてくださるインマヌエルの主、イエス様の御名によって。アーメン。